知らない感情
緒方が煙草を咥え火をつけようとした時エレベーターの扉が開いた。
緒方はそのまま煙草に火をつけエレベーターから降りて来る人だかりを見ていた。
「なぁどっか寄ってく?」
和谷が大きく背伸びしながら後方にいるヒカルに声をかけた。
「何お前らどっか行くのか。」
「冴木さんも行く?」
和谷と冴木が何処へ行くかと話している後方でヒカルは考えことでもしているのか会話に入っていかなかった。
「進藤どうした?元気ないぞ。」
それに気がついた冴木が軽くヒカルの頭を撫でた。
緒方の片眉がかすかに動いたがそれに気がつく者はいない。
冴木に頭を撫でられたヒカルはいつもの笑顔で応えた。
「どうもしないよ。それよりもどこ行く?」
「そうか・・・。」
ヒカルの笑顔がいつもの元気なのと違っていたが冴木は気づかない振りをした。
先頭を歩く和谷が軽く会釈をした。
その目線の先には緒方がいた。
和谷・冴木に続きヒカルも軽く会釈をして通り過ぎようとしたその時
「どわぁ。」
ヒカルの声に和谷・冴木が振り向いた。
和谷と冴木が見た光景は信じられないものだった。
ヒカルが緒方の横を通り過ぎようとしたその瞬間だ。
ヒカルの首に緒方の腕がまるでラリアットの軽い感じでやってきたのだ。
そして緒方はヒカルの背後に回り込み抱きついていた。
「「・・・・。」」
和谷と冴木は口を開けたまま固まっている。
そんな二人にヒカルは瞳を潤ませながら無言で助けを求めた。
だがそんなものは緒方によって無残にも却下されるのである。
「俺はこいつに用があるから貰って行くぞ。」
二人は固まったままだ。
緒方はヒカルに有無を言わさずその場を後にした。
取り残された二人の硬直が溶けたのは二人の姿が見えなくなって随分経ってからだ。
「冴木さん・・・なんか見た?」
「いや俺は何も見てない・・・断じて見てないぞ。」
二人は先刻の出来事は夢幻だと決めつけその場を後にした。
ヒカルは緒方に抱きかかえられる様に歩いていた。
「乗れ。」
ヒカルは助手席に乗せられそのまま車は発進した。
ヒカルは何かを話す気にもなれず窓に流れて映る景色を瞳に映していた。
赤信号で車が止まり緒方はハンドルにもたれかかる。
―――カチン
ヒカルの瞳に映している窓に緒方の姿がある。煙草に火を点け形の良い唇に煙草を持った手を当てていた。
目の端にその姿を納めてヒカルはソッと瞳を閉じた。
『くやしいけど・・・やっぱりかっこいいんだよな。』
そして閉じていた瞳をゆっくりと開けて緒方が映っているであろう窓を見た。
その瞬間ヒカルは思わず目線を逸らしてしまった。窓に映る緒方と目線が重なった様な気がしたのだ。
そして逸らした瞳に入ってきたのは赤ではなく青に変わった信号だった。
「緒方先生・・・青。」
車を発進させると同時に緒方は口を開いた。
「二人きりのときは先生と呼ぶなと言ってるだろう。」
「そういえばそうだったね・・・緒方さん。」
まだ言い慣れていないヒカルの頬は仄かに朱を走らせていたのだが真っ直ぐ前を向いて運転している緒方にその表情は見えなかった。
ヒカルはいつからか緒方と二人で会うようになっていた。
なぜかいつも偶然出会ってしまう・・・そう思っているのはヒカルだけである。
いつもヒカルの行く先々にいる緒方。その度に“偶然って重なるもんなんだ”と思うヒカルはかなり鈍感なのだろう。
「進藤。」
ずっと無言だった緒方が口を開いた。
「何?」
ヒカルは窓に映る緒方を見つめながら返答した。そんなヒカルの頭を“ポンポン”とゆっくりと手を置く緒方。
ヒカルはなぜか泣きそうな気分になったがギュウっと目を瞑り緒方の方を振り向きながらゆっくりと目を開けた。
「緒方さん?」
緒方の視線は前を向いたままだ。その横顔にまた泣きそうな気分になる。
二人の間に会話が生まれないまま緒方のマンションに着いた。
ヒカルはシートベルトを外したものの降りるのを躊躇っていた。
「さっさと降りろ。」
緒方が助手席の戸を開けた。ヒカルはその言葉に従いゆっくりと車から降りた。
緒方はそんなヒカルを待たず前を歩いていた。
ヒカルはそれに追いつくように小走りで後を追いかけマンションの入り口で追いついた。
緒方がカードを差込み暗証番号を押す。
―――ガ―
無機質な音が辺りに響いた。
「行くぞ。」
いまだ躊躇っているヒカルは緒方の声に引き寄せられるように後をついていった。
緒方は後ろからヒカルが来ているのを確かめながら自分の部屋へと足を進めた。
ヒカルは緒方の後姿を追いながら『なぜ自分は緒方さんと一緒にいてしかも緒方さんの部屋に行こうとしているか』と考えていた。
ヒカルとしては緒方はわからない人である。自分を院生にしてくれたのも緒方さんだと言ってもいいだろう。
『なぜこの人は俺に手を差し伸べてくれるんだろう。』
緒方の広い背中を見つめながら歩いていると鼻に衝撃を受けた。
緒方の背中にぶつかったのだ。
「前を見て歩け。」
ヒカルはちゃんと前を向いて歩いていたのだが《あなたの背中に見惚れていました》などと言えるはずもない。
ぶつけた鼻をさすり緒方の少し笑みを含んだ顔をチラッと上目使いに見つつ視線を逸らした。
緒方の部屋は本当に大人の雰囲気を漂わせていた。
無駄に散らかっていないのだ。それを目の前にしたヒカルは部屋の入り口の前で動けないでいた。
『俺って場違いなんじゃ・・・。』
ヒカルの考えていることがわかっているのか緒方はヒカルの背中を押した。
「そこら辺にでも座っていろ。」
ソファ―を指差し緒方は台所へと足を向けた。
ヒカルが恐る恐る辺りを見回しながら座ろうとした時
「お前珈琲は飲めるのか?」
ヒカルは思わず座るのを止め背筋を伸ばしてしまった。
「・・・何をやっている。」
緒方の言葉にヒカルは顔に朱を走らせた。
「まぁいい。それよりも珈琲は飲めるのかと聞いている。」
「牛乳が入ってるのなら飲めます。」
「そうか・・・ミルク珈琲だな。」
ヒカルはソファーへと倒れこむように座った。
ヒカルの前のテーブルに仄かに甘く香るミルク珈琲が置かれた。
緒方はブラック珈琲を口にしながらヒカルの隣へと座った。
「いただきます。」
ヒカルはそう呟きカップを両手で包み込み自分の口元へと運んだ。
―――フゥ〜
息を吹きかければ白い湯気がゆらゆらと揺れた。
沈黙の数秒がヒカルにとっては何分否数十分に感じられた。
―――コトン
その音にヒカルが目をやれば緒方が飲み終えた空のカップをテーブルの上に置いていた。
「進藤。」
ヒカルは名を呼ばれゆっくりと緒方の方に身体を向けた。
次に何を言われるのかと身構えるヒカルに段々と近づいて来る緒方の顔。
緒方は動けないでいるヒカルの手からいまだミルク珈琲が残るカップを奪いテーブルの上に置いた。
そして軽く触れるだけのキス―――――
その行為に呆然としているヒカルに意地悪そうな笑顔を向けた。
「・・・なっ・・・んぅ。」
その笑顔に我に返ったヒカルに今度は深く口づけた。
ヒカルは懸命に緒方の胸を押すがビクともしない。
それどころか緒方の行為は更に激しいものになろうとしていた・・・しかしその時
―――トゥルゥルゥルル〜
電話の音にヒカルの身体がビクッと反応した。
そんなものには動じない緒方が角度を変えようとした瞬間を見計らいヒカルは懇親の力を込めた。
まぁ力を込めたといってもほとんど緒方には効きもしないのだがほんの少し緒方の唇がヒカルの唇から離れた。
「ハァ・・・電話・・・緒方さん。」
ヒカルは再度口づけようとする緒方の唇を自分の手で覆った。
ヒカルは身体の熱が上昇するのが目で見てわかるほど顔を真っ赤にさせた。
「お・・緒方さん何?」
緒方はヒカルの手首を掴み自分の唇を覆っている手の平を何の迷いも躊躇もなく舐めた。
しかもかなり執拗にだ。
「・・・電話・・・」
諦めず電話に出てと催促するようにヒカルは声にならない声で囁いた。
そんなのは聞く耳もたないとでも言うように緒方は手の平だけではなく指にまで侵攻していた。
ヒカルの指を舐める緒方の舌がチラチラとヒカルの瞳に映る。
動かそうにも手首をがっちり掴まれていてビクともしない。
―――トゥルゥルゥルル〜
しつこくとられることのない電話の音が鳴り響いている。
ヒカルはなぜ自分が今緒方にこのような行為をされているのかわからず泣きそうになっていた。
否もうほとんど涙目になっていたと言った方が正しいだろう。
『ただいま留守にしております。御用の方は・・・・』
一向にとられる雰囲気のない電話は留守電となった。
『精次あんたねぇなんでいつもいつもいないのよ。ったく・・・まぁいいわ。今度会う時までに言い訳考えときなさいよ。』
―――プープープー
まるでなにも起こらなかったかのように緒方は行為を進めようとしていた。
「緒方先生・・・お願い離して・・・お願いだから。」
今にも消え入りそうで でもはっきりとした口調で懇願するヒカルを見て緒方は少しばかり驚いた。
ヒカルの大きな瞳からは透明な雫がポロポロとこぼれ落ちていたのだ。
その雫をすくい取ろうとした緒方の指をヒカルは後ずさりして拒否した。
「そんなに嫌だったか。」
緒方の言葉に進藤は小さく顔を横に振った。
「それなら・・・」
「だって・・・緒方さんにとって俺って何?」
緒方の言葉を遮りヒカルは静かに緒方の目をじっと見つめた。
数日前ヒカルは街で偶然緒方を見かけた。
声はかけられなかった。
とても綺麗な女の人と歩いていたから・・・すごくお似合いでヒカルは見ていることさえも苦しくなった。
緒方は大人でそういう仲の女の人がいるのは当たり前だとヒカルは納得するのだがなぜか哀しくなった。
その理由がわからなくてずっと考えてはいるのだけど思い浮かぶのは女の人と仲良さげに歩く緒方の姿だった。
ヒカルに見つめられながら緒方はサラッと答えた。
「そんなこと考えたこともない。」
その答えにヒカルは深いため息をついた。
『そういえば緒方さんってこういう人なんだよな。』
今度はヒカルの態度に緒方が口を開いた。
「そう言う進藤にとって俺って何なんだ。」
その顔はとてもいぢわるかった。ヒカルは両頬を膨らませ立ち上がろうとした。
「俺を院生に推してくれた人・・・それだけだよ。」
緒方はそんなヒカルの腕を掴んだ。
「そういやお前なんか今日いつもの元気がないな。」
今更ながらそんなことを聞いてくる緒方にヒカルはがっくしと肩を落とした。
ヒカルにしてみれば緒方が女と歩いていたくらいで落ち込むなんて可笑しいのだ。
自分の感情に(人の感情にも)疎いヒカルはそう思い込みさっさと緒方の傍を離れようとした。
「何処へ行く?」
「帰るんです。どうせ遊びなんでしょう。俺はそういうのお断りです。他の人にして下さい。」
きっぱりさっぱり言い放ちついでに掴まれた腕を振り払いヒカルはスタスタと玄関に足を進めた。
「ちょっと待て遊びってどういうことだ。」
緒方は歩いているヒカルの両肩を掴み自分の方に向かせた。
なぜか怒っている緒方の表情にヒカルは固まってしまう。
「俺はお前以外のやつとあんなことする気なんかないぞ。」
「でも・・・」
ヒカルは顔を下に向けボソッと呟いた。
「女の人と仲良さそうに歩いてた。」
「ハァ?」
緒方はしゃがみ込み一向に顔を上にあげようとしないヒカルの顔を覗き込んだ。
そんな緒方の視線から逃れるようにヒカルは背を向けた。
緒方はヒカルの小さい背中を抱き締め髪に唇を落とした。
「一体なんのことだ。」
ヒカルは必死で振り切ろうとしているがまったく緒方は動かない。
「なんでもない。緒方さんが誰と歩いていようと俺には関係ないから。」
ヒカルの言葉に一瞬緒方は傷ついた顔を見せたがヒカルは気がつかなかった。
ヒカルの肩を掴んでいる緒方の手に自然と力が入る。
「いっ・・・痛いよ緒方さん。」
「“関係ない”か。」
「緒方さん?」
今度は緒方の様子が変だと気がついたヒカルが緒方の顔を覗き込んだ。
緒方は覗き込んできたヒカルの頬を両手で包んだ。
「なぁお前が元気ないのって俺が女と歩いてたからか?」
「なっ・・・。」
ヒカルは緒方の言葉に顔を紅くさせた。
ヒカルは考える。
なぜ自分はあの日から胸がすっきりしないのか。
どうして緒方のことを思い出しては落ち込んでしまうのか。
しかしどう考えても答えなんて出てこない。
無言のヒカルに緒方がゆっくりと口づけた。
軽く触れるだけの口づけに呆然としているヒカルに緒方が薄く笑う。
「そんな難しい顔をするな。」
「・・・難しい顔なんて・・・」
「してる。ほらここにしわができてるぞ。」
緒方はヒカルの眉間にできているしわを人差し指で伸ばした。
ヒカルは緒方の指が触れている眉間に熱が集まるのを感じた。
そして軽く身をよじる。
「お前勘違いしてるだろ。」
「勘違い?」
緒方は自分から離れようとするヒカルをしっかりと掴んだ。
「あいつは俺の親戚だ。」
あいつとは明らかに先日緒方と一緒にいた女のことだ。
「・・・親戚。」
ヒカルが張りつめた顔を弛めたのを緒方は見逃さなかった。
それに気がついたヒカルは慌てて顔を引き締める。
「あいつは会う度に煩いんだ。」
顔をしかめる緒方にヒカルは軽く首を傾げた。
「“早く結婚しろ”ってな。」
「緒方さん結婚するの?」
驚いた表情でヒカルはおもわず緒方を覗き込んだ。
その様子に緒方は普段なら絶対しそうにない表情で微笑んだ。
「しない。」
「でもそういう相手はいるんだろ。」
ヒカルがそう呟くと緒方は少し間をおき答えた。
「あぁいるな。」
「・・・そっかぁ。」
緒方の言葉一つでヒカルの胸の中はわけのわからない感情でいっぱいになった。
胸が苦しくなって目尻が熱くなって―――なんでかわからないけど悲しくなって。
眼鏡越しの緒方の瞳がとても愛しくて・・・
そんな自分の考えがよくわからなくてただ一つ言えることはヒカルとって緒方には大切な人がいるという現実が苦しいものだということだった。
「お前また勘違いしてるだろ。」
緒方は不安そうな顔のヒカルを自分の胸に引き寄せ耳元で囁いた。
緒方には大切な人がいるのに自分にこういう行為をすることが信じられなくて―――でも胸の奥の方では嬉しい感情もあってヒカルは困惑した。
「そういや俺まだお前に言ってなかったな。」
ふと思い出したように緒方はヒカルの背中をポンポンとあやしながら呟いた。
自分の感情を整理出来ないヒカルは考えることを放棄して緒方の次の言葉を待った。
ヒカルは緒方の次の言葉を耳にした瞬間 緒方が何を言っているのか理解出来ないほど思考が止まってしまっていた。
「進藤・・・俺はお前が好きなんだ。」
「ふぇ?」
呆然としていたヒカルを抱き締め緒方は少し苦笑しながら囁いた。
「だから俺はお前が好きだと言っている。」
「好き?」
「そうだ。」
緒方の言っている事をヒカルは頭の中で何度も復唱した。
『え・・・っと・・緒方さんが・・俺のことを・・・・好き。好き?好き。好きぃ〜!!!』
やっと思考を復活させたヒカルは大きい瞳をより開かせて緒方の顔を見た。
そして緒方はヒカルの頭を撫で額に唇を落とした。
「あっ・・・・俺・・」
ヒカルの言葉を遮り緒方が口を開く。
「進藤・・・お前俺の事好きだろ。」
その言葉にヒカルの思考はまたもや止まってしまった。
ヒカルは困惑しつつ自分が緒方のことを好きという事実に妙に納得していた。
「俺・・・緒方さんのこと好きだったんだ。」
ヒカルの呟きにも似た言葉に緒方はクスリと笑った。
「やっぱりお前気がついてなかったのか。」
「はぁ?」
いかにも自分はヒカルの想いに気がついていたという風な緒方にヒカルは首を傾げた。
「そんな可愛い顔をするな・・・襲いたくなる。」
「なっ・・・///」
緒方の言葉に抗議しようとしたヒカルの口は緒方によって塞がれた。
『もう襲ってんじゃん。』
ヒカルは心の中でそう突っ込みながらもう抵抗はしなかった。
終了
平成15年4月