記憶の残像
この時期になるとヒカルは不安な気持ちになる。
佐為がいなくなったみたいに大好きな大事な人が自分の前からいなくなってしまうかのような錯覚に囚われるからだ。
新緑さわやかな風が吹き先刻まで目の前にいたはずの人がいなくなる。
『伊角さんは佐為とは違う。』
そう想っていてもヒカルは不安を隠せないでいる。
佐為はここにはいないと知っていてもヒカルは毎年お墓参りに来ていた。
時間がある時は因島まで足を運ぶのだが 今のヒカルは忙しくここ何年かは東京でのお墓参りが常だ。
“本因坊秀策”その身体は佐為のものではなかった。
でも佐為が秀策という事実がヒカルの足をお墓へと向かわせる。
ヒカルがお墓参りに行くようになってからこの日に雨が降ることはない。
玄関に入った瞬間降り出すというのが何回かあったぐらいだ。
そして今日も晴天である。
「いってきます。」
「いってらっしゃい。気をつけてね。」
母もヒカルのこの日の行動について何も聞かない。
―――ガチャ
ヒカルが玄関を開け足を一歩踏み出そうとした時見慣れた靴が目に飛び込んできた。
ヒカルが顔を上げるとそこには驚いている顔の伊角が立っていた。
どうやら呼び鈴を押そうとした瞬間に戸が開いたらしい。
「伊角さん。」
「おはよう進藤。おはようございます。」
奥にいるヒカルの母にも挨拶を忘れないところが伊角らしい。
「どうしたのこんな朝早く。」
そうヒカルのこの日の行動開始の時刻は早い。今なんて朝の五時半だ。
ヒカルは問いを投げかけつつ足を進めた。
伊角はヒカルの母に軽く会釈をしてヒカルの後をついて歩いた。
伊角は先を行くヒカルの数歩後を歩いていた。
そんな伊角を気にする様子もなくヒカルはただ黙って歩いている。
薄っすらと白みを帯びていた空が徐々に薄青へと変化していく。
ふとヒカルが立ち止まった。
ヒカルは公園の入り口から中をじっと見つめている。
そんなヒカルを伊角は見つめていた。
数分間ヒカルはその場に立っていた。そして視線を公園から逸らし前を向いてまた歩き始めた。
公園に限らずヒカルは何度かいろんな所で立ち止まりなにもせずただその場所を見つめていた。
電車に乗りヒカルは窓の外をボウっと観ていた。
そんなヒカルを向かい側に座っている伊角が見つめている。
そして巣鴨に到着。ヒカルはどこに寄るでもなく本妙寺に向かう。
そして迷う事無く秀作の墓の前で足を止めた。
お墓参りだというのにヒカルの手には花も線香も握られていなかった。
『ヒカルらしいですね。』
そんな声が聞こえてきそうだ。
少しの間墓前でジッとしていたヒカルだったが空を仰ぎ大きく息を吸って吐いた。
そして真剣な眼差しで秀策のお墓を・・・否佐為を見つめた。
「俺頑張るから。」
その一言を呟きヒカルはお墓に背を向けた。
ヒカルは本妙寺を出ようとして石段で足を止めた。
そして石段に座っている人の横に立つ。
「おかえり。」
座っていた人はお尻の汚れを落としながらゆっくりと立ち上がりヒカルを迎えた。
「・・・ただいま。」
その人に答える様にヒカルは言葉を口にしてその人の胸にコツンと額を預けた。
「本当・・・伊角さんも暇人だよね。」
そのままの状態でヒカルは少し笑いながらそう呟いた。
伊角は毎年黙ってヒカルの後をついて来る。
ヒカルもその行為に何も言わない。
ヒカルは初めての時多少驚いていたが今では当然のようになっている。
伊角が―――何も聞かないから
―――ある一定の場所から踏み込んでこないから
だから ヒカルは自分の行為に対しても伊角の行為に対しても何も言わない。
伊角は自分にもたれかかってくるヒカルは受け止めた。
そして優しく宥めるようにヒカルの背中をさすった。
その行為にヒカルは両手をギュウっと伊角の胸辺りで握り締めた。
あの日以来伊角は傍にいられる時はいつもヒカルの傍にいる。
佐為の存在を無くしたヒカルは無意識に伊角を受け入れていた。
独りでいるのが寂しいとか嫌とかそんなんじゃなくて。
「伊角さんだからだよ。」
呟くように囁くようにヒカルが言葉を口にすれば伊角は微笑んだ。
少しの間二人は石段にいた。
「お腹すいた。」
ヒカルのその言葉でやっと其処から動いたのである。
サッと伊角から離れ前を向くヒカルの表情は伊角には見えない。
それと同時にヒカルの後にいる伊角の表情はヒカルには見えない。
でもきっと二人とも笑ってる。
「何が食べたい?」
「ん〜・・・」
「ラーメン以外だぞ。」
ヒカルが答えようとした瞬間伊角は言い放った。
「え〜なんで。」
「なんでってお前いつもラーメンばっかりじゃないか。」
「だって美味しいじゃん。」
前を向いていたヒカルが口を尖らせて伊角の方を向いた。
結局ヒカルに押し切られる形で二人はラーメンを食べた。
「美味しい。」
「そうだな。」
嬉しそうな顔で食べるヒカルの言葉に伊角も同意する。
「なんだよ。」
そんな伊角をニコニコとジッと見てくるヒカル。
「なんでもない。」
そしてズルズルとラーメンをすすった。
佐為がいたころはよく一人でラーメン屋に寄っていた。
ヒカルが美味しそうに食べている姿を見て佐為は嬉しそうだった。
一緒には食べられなかったけど佐為のその顔が本当に嬉しそうだったからヒカルも嬉しかった。
『その時は気がつかなかったんだけどな。』
伊角の顔を見ながらふとそんな事を思い出した。
歳を重ねる毎に佐為の存在した時間が曖昧に思えてくる。
忘れるはずもないのにふとした瞬間
―――あの時佐為はどうしたっけ
―――こんな時佐為ならなんて言ってたっけ
―――佐為はどんな顔で笑ってたっけ
忘れたくないはずなのに忘れるわけがないのに記憶が薄れていく瞬間がある。
駅まで歩いていたヒカルがふと言葉を漏らした。
「どうして人は忘れたくない記憶まで忘れていくんだろう。」
手を頭の後ろで組みヒカルはほんの少しの雲が流れる空を見上げた。
「ねぇ伊角さん。」
そして目線だけを伊角に向けた。
「そうだな・・・。」
時々伊角はふとした瞬間のヒカルの言動に驚かされていた。
普段のヒカルからは想像も出来ない深い言葉を投げかけられる度にヒカルの心の寂しさが浮き彫りになってくる。
伊角だってヒカルに何があったか気にならないわけじゃない。
だけど今自分の傍にいてくれる・・・否傍にいさせてくれている。
伊角はそれだけで十分だった。
無言の伊角を困惑しているととったのかヒカルは大きく背伸びをした。
「ん〜ごめんね伊角さん変なこと言って。」
忘れてと笑うヒカルはどこか遠くを見ていた。
その先には鯉のぼりが五月の緩やかな風に揺れていた。
その風に乗ってヒカルが消えてしまいそうな衝動にかられた伊角はおもわず後からヒカルを抱き締めていた。
「伊角さん?」
ヒカルはいきなり抱き締められたことに驚きおもわずこけそうになった。
「進藤が・・・」
「俺が?」
「俺の前から消えてしまうのかと思った。」
ヒカルにはそんなわけがないのになと苦笑する伊角と自分が重なって見えた。
ヒカルは自分を抱き締めている伊角の腕をギュウと握った。
「俺は消えないよ。」
はっきりとそう言い放つヒカルの瞳は真剣そのものだった。
ヒカルは消えた後の―――残された者の悲しみを十分に知っている。
自分がいなくなることで悲しむ人が一人でもいるのなら自分は消えない。
「伊角さんが悲しむから消えない。」
「そうか。」
「だから伊角さんも消えないで。」
ヒカルは伊角の方に身体を向け伊角を抱き締めた。
伊角が消えたらヒカルは今度こそ立ち直れないかもしれない。
佐為が自分の打つ碁の中にいることを教えてくれた人。
自分が傍にいて欲しい時に傍にいてくれた人。
ヒカルにとって伊角は確実に大切な人になっていた。
「大丈夫だよ。俺も消えたりしないから。」
自分を抱き締めてくるヒカルに伊角はすごく柔らかくそして優しく囁いた。
その言葉はヒカルにとってとても意味がありそして深い。
碁の道を歩く仲間は多い。その中に伊角はいる。
仲間の中には志半ばでいなくなっていく人も少なくない。
その中で伊角は“消えない”と言っているのだ。
ヒカルはその言葉が嬉しくて少し泣きそうになった。
ヒカルは少し涙ぐんだ瞳を伊角に向け微笑んだ。
そんなヒカルに伊角は微笑み返しキュッとヒカルの身体を自分の腕の中に包み込む。
伊角の優しさがヒカルの目尻をより熱くさせ頬に一筋の涙が零れた。
伊角はヒカルの頭を撫でながら涙が止まるのを待った。
自分は一生ヒカルが心に閉じ込めている人には敵わないのかもしれないと伊角は想う。
しかし今傍にいて抱き締めているのは伊角なのだ。
ヒカルは涙を拭い空を仰いだ。
空は快晴。
飛行機雲が空を走っている。
それを追い越すように本物の飛行機がキーンと飛んでいる。
「行こうか伊角さん。」
今まで泣いていたのが嘘のようにヒカルはいつもの笑顔を伊角に向けた。
「あぁ・・・」
ヒカルが歩く道はきっと険しい道なのだろう。
しかしそれは伊角にとっても同じこと。
「行こうか。」
ヒカルが見据える先を伊角も見ている。
朝とは違って二人は並んで歩いている。
ヒカルにとって佐為はかけがいのない人だ。
その人を忘れるなんてヒカルには出来そうにない。
「進藤。」
「何?」
伊角が前を見ながらヒカルの頭にポンッと手を乗せた。
「優しい記憶なんだよ。」
「ふぇ?」
いきなりの伊角の言葉にヒカルは首を傾げた。
伊角はゆっくりと足を進めながら口を開いた。
「忘れたくないのに忘れてしまうのは優しい記憶だからだよ。」
ヒカルの中では終っていた話を持ち出されヒカルは少々驚いた。
「そりゃやっぱりその記憶も忘れられたくないかもしれないけど・・・」
ヒカルは黙って伊角の紡ぐ言葉に耳を傾けていた。
「・・・自分と同等否それよりも楽しい記憶を進藤に刻んで欲しいんじゃないのかな。」
ヒカルには“まぁあくまで俺の意見だけどな”と苦笑する伊角がとても愛しく思えた。
毎年ヒカルと伊角は駅で別れていたがその年は違った。
「伊角さんまだ時間ある?」
「ん?・・・あぁ。」
ついて来てとヒカルは伊角に微笑み歩き出した。
ヒカルの歩調は先程とは違い少し早くしっかりしているように伊角には感じられた。
出掛ける時とは違いヒカルは立ち止まったりせず目的地を目指す。
「此処は?」
「じぃちゃん家。」
ヒカルは自分が来た事を知らせるべく玄関を開けた。
蔵の鍵を開けヒカルは薄明かりの中足を進める。
ヒカルはいつも墓参りの後この場所を訪れていた。
階段を上り古い碁盤の前にゆっくりと腰をおとした。
その碁盤を見つめるヒカルはとても愛しく寂しそうな瞳をしていた。
「毎年毎年・・・持って帰ってええと言ってるんだがね。」
その様子を毎年見ているであろうヒカルの祖父が苦笑する。
「いいんだよ。まだ手元には置けないから。」
祖父はヒカルの言葉に首を傾げながら伊角に声をかけた。
「ヒカルは永い時間そこを動かんよ。茶でも飲むか?」
伊角は静かに首を横に振った。
ヒカルが自分を此処に連れて来たのだ。それならば自分はヒカルの傍にいなければならない。
伊角はヒカルの向かい側に座り静かにヒカルを見つめた。
ヒカルは一瞬伊角に視線を送り笑いかけそしてまた碁盤に視線を落とした。
そんな二人の様子をやれやれといった様子で少しの間眺めた後祖父は蔵から出た。
胡座をかき頬杖をついてヒカルは何を考えているのかわからない表情で碁盤を見つめていた。
時折笑顔を見せたり寂しそうな表情をしたりしていたが永い時間虚ろな目をしていた。
毎年毎年ヒカルは独りでこの刻を過ごしてきたのだ。
しかし今は違う。ヒカルは自分の意思で伊角をこの場所へこの碁盤の傍に連れて来た。
『佐為・・・』
ヒカルは静かにいるはずのない・・・もしかしたらいるのかもしれない人を呼びかける。
『いろいろあるけど俺なんとか頑張れてるよ。
伊角さんがね傍にいてくれるんだ。寂しくないっていうのは嘘かもしれないけど俺嬉しいから。
お前が・・・佐為がいなくなってどうしようもない俺に気がつかせてくれたんだ。
俺の中に俺の打つ碁の中に佐為がいるって。伊角さんってお前に少しだけ雰囲気が似てる。
似てるから好きになったのかもしれない。でもきっかけはどうだっていいと思う。
ハハ俺って身勝手かな・・・・なぁ佐為。俺忘れないよお前の事。
薄れていく記憶があるのは確かだけど俺の中のお前はいるんだ。
伊角さんが答えをくれた。だから伊角さんに来てもらったんだ。
佐為・・・ありがとう。』
また来るからという想いを秘めてヒカルは碁盤を軽く手で撫でた。
碁盤から視線を上げると伊角と目が合った。
伊角の顔がゆっくりと綻ぶ。それにつられてヒカルの顔も綻んだ。
「伊角さん。」
「ん?」
「ありがとう。」
「どう致しまして。」
どうってことないよと言葉を返してくれる伊角がヒカルにはとても愛しく思えた。
同時に悩みながらも前を向いて進もうとしているヒカルが伊角にはとても愛しかった。
蔵を出て祖父にもう帰ると告げる。
「ヒカルなら大丈夫ですよ。頑張って下さい。」
背中を向けたその背後から懐かしい声がヒカルに聞こえた。
その声はヒカルの幻聴だったのかもしれない。
おもわず振り向いても誰もいるはずがない。
ハハハと笑いヒカルは下を向いた。もしかしたらヒカルは泣いていたのかもしれない。
だけど顔を上げたヒカルは泣いてなんかいなかった。
「伊角さん行こう。」
力強い瞳が前を上を目指す。
伊角はヒカルの頬を撫で頭をクシャと撫でた。
そうして二人は共に歩き始める。
終了
平成15年5月