呼び方
ある日の夕刻時のことである。
伊角家では、久しぶりに夕飯を家族全員揃って食べていた。
それは、母の一言からであった。
「慎一郎は、進藤さんになんて呼ばれているの?」
「はい?」
「あ〜、それ俺も知りたかったんだよね。」
「俺も〜。」
弟(1)と弟(2)が、箸を口に入れたまま口を開いた。
「口の中を空にしてから話しなさい。」
柔らかく叱る父もなぜだか知りたそうであった。
「“伊角さん”ですよ。」
そう言うと伊角は止めていた御飯を食べる手を再開させた。
「そうなんだ。」
「名前で呼ばれたことないの?」
「・・・ないな。」
「それじゃ、お前はあの顔を見てないのか。」
「あら、私も顔は見てないわ。いつも声だけだもの。」
伊角は、再度手の動きを止め家族を見回した。
「俺がわかるように話してくれないか。」
つまりは、こういう事である。
―――母の場合
プルプルプル〜
「はい、は〜い。」
伊角母がエプロンで手を拭きながら受話器を取った。
「はい、伊角でございます。」
「・・・進藤と申しますが伊角さんはいますか?」
「え〜っと、どの伊角かしら?」
そうこの家は伊角家なのだ。
「あっ・・・すいません。え・・・っと、慎・・・一郎さんはいますか?」
照れるような恥らうような声が受話器の向こう側から聞こえた。
「慎一郎ね。ちょっと待っててね。」
伊角母は、保留を押しフフっと笑った。
伊角母は、進藤と聞いてすぐに慎一郎への電話だと分かっていた。
なのになぜあのような対応をしたのか!
それは、簡単である。
『慎一郎さん』
ヒカルにそう呼ばせるためである。
一度聞いて慣れそうなものなのにヒカルは、何度も必ず『伊角さんはいますか?』と聞いてくるのだ。
伊角母は、ヒカルを初めて見た時から気に入っている。
その気にいっている子が恥じらいながら自分の息子の名を口にするのだ。
それだけで伊角母の口元は緩むのであった。
―――弟たちの場合
「「いってきま〜す。」」
弟たちは、出かける場所は違うのだが一緒に玄関を出た。
―――キィ〜
門を開けるとそこには、前髪だけが色素の薄い自分たちと同じ年頃の子が立っていた。
「家になんか用?」
目が合った弟(1)が問いかけた。
「伊角さんいる?」
ヒカルは、ペコッと頭を下げ口を開いた。
弟二人は目を見合わせた。
「どの伊角?」
その問いかけにヒカルは、暫し考えた。
暫く考えた後口を開こうとするが頬に仄かに朱を走らせ俯いたりしながらチラチラ弟たちを見た。
「・・・いる?」
「「えっ?」」
聞こえなくて弟たちが聞き返すと今度は、はっきりと聞こえた。
「慎一郎さんいる?」
その時のヒカルは、耳まで真っ赤にさせていた。
そんなヒカルを家に招き入れてから再度弟たちは、家を出た。
「お前どう思った?」
「名前言うだけであそこまで照れられるとこっちまで照れるよな。」
「だよな。しかも、男なのにあそこまで可愛いのは不意打ちだよ。」
「あぁ、写真で見る限りじゃ綺麗な感じなだけなのにな。」
兄の所有する碁関係の新聞や雑誌でヒカルを見たことのある二人は、その印象の違いに驚いていた。
碁をしているヒカルと普段のヒカルの顔つきはだいぶ違うので当然といえば当然である。
しかし、二人はヒカルが兄である慎一郎の知り合いだとしりつつヒカルに問いかけたということになる。
「母さんが嬉しそうに話すのも分かる気がする。」
「『進藤さんが訪ねて来たら絶対慎一郎の名前を呼ばせるのよ』っていうのが最近の口癖だもんな。」
「そのくせ自分は、生で聞いたことがないんだってさ。」
「じゃ、俺たちが伊角家で初ってことか?」
「・・・それが、どうやら違うらしい。」
「違う?」
「あぁ。」
「ふ〜ん・・・しかし、まぁ役得だったよな。」
二人は、またヒカルに会ったら今日のように仕向けようと笑い合った。
―――父の場合
伊角父が改札口から出てさぁ家に帰ろうという時だ。
―――ボスン
伊角父の胸辺りに誰かがぶつかってきた。
「っ・・あっ、ごめんな・・・」
ぶつかってきた子は、どこかで見たことのある青年だった。
「どうかしたのかね。」
「いえ・・・あのちょっと知り合いに似ていたので。」
「ふむ。その人の名は?」
「伊角さん・・・ですけど。」
伊角父は、暫く考えた。
「その人の下の名は?」
伊角父が青年にそう尋ねると青年はなぜか顔を仄かに上気させ視線を泳がせた。
「あの・・・」
「ん?」
「慎一郎さん・・・です。」
「慎一郎の友達か。」
青年は、伊角父の息子の名前を言うだけでどこか儚げに照れるように笑った。
伊角父は、その青年が男だと分かっていても見惚れるくらいにだ。
「伊角さんのお父さん?」
「あぁ。」
伊角父は、慎一郎の呼び方がもう伊角さんに変わっていることに気がつく。
でも、まぁそんなことは気にしないのが伊角父だ。
そして、ちょっとした挨拶を交わして二人は別れた。
伊角父が家に帰ると伊角母がそれはもう嬉しそうに今日来た来客について話してくれた。
「そうか、あの子は進藤さんと言うのだな。」
「あら、御存知でしたの?」
「ん?会社帰りに駅で偶然な。」
「なんだかあなたも嬉しそうですね。」
「そりゃ、まぁ自分の息子の名をあそこまで恥じらいながら呼ばれるとな。」
「えっ、あなたずる〜い。私もその時の進藤さん見たかった。」
「今度来た時にでも呼んでもらうといい、あの表情は見て損は無いぞ。」
「えぇ、そうしますわ。」
というわけで伊角家で一番最初にあの言葉を生で聞いたのは、伊角父なのであった。
以上をまとめるとどうやら伊角家でヒカルが『慎一郎さん』と読んだのを聞いた事が無いのは、伊角ただ一人という事だ。
「そうか、そうか。慎一郎は、まだ進藤さんにそう呼ばれていないのか。」
「兄さんは、今のまんまでいいの?」
「何が?」
伊角は、脱力した声で疑問を口にする。
「え〜何がって兄さんって、進藤さんの事が好きなんだろう。」
弟(2)の言葉に伊角の動きが止まる。
「やっぱ好きな人には、名前で呼ばれたいっしょ。」
「そうよね。」
弟(1)の言葉に同意する伊角母。
「ど・・・どうしてそれを・・・。」
慌てふためく伊角を父母は、ニコニコと眺め弟たちはいそいそと箸を口に運んでいる。
「あら、二人を見ているとわかるわよ。ね、あなた。」
「あぁそうだな。特に進藤さんは分かり易いな。」
「あら、慎一郎もわかりやすいわよ。」
「そういえばそうだな。」
伊角は、父母の会話に箸を置き頭を抱えた。
まさか家族中に自分のヒカルへの気持ちがばれているとは思ってもいなかったのだろう。
「あんな可愛くて綺麗で良い子逃がしちゃ駄目よ、慎一郎。」
「しっかり掴まておかないとな。」
しかも、ヒカルが同性ということなど関係無いとばかりに応援されている。
「とりあえずは、名前で呼ばれないとなぁ。」
「名前を口にするまでの表情とした時の表情がまた良かったよなぁ。」
「私も見たいわ。」
それぞれがヒカルのその時の声と表情そして態度を思い出して悦に浸っている。
その中で伊角は思うのである。
『なんで俺だけが聞けてないんだ。』
それにどんな表情だったのかも気になるところである。
「何事も根気よくだぞ、慎一郎。」
「はい。」
父の言葉にそう返事を返しながら伊角は、一人たそがれるのであった。
あぁ、哀れ伊角さん。
頑張れ伊角さん。
家族は君を応援してくれているぞ。
終了
平成16年3月6日